福岡県小郡市の大崎では古くより他地域の土器などが出土していますが、これは大崎が有明海→筑後川→宝満川と筑紫平野の村をつなぐ流通の拠点となる港であったためであると思われます。有明海を通って時には国外へと船出することもあったでしょう。
当時、公の外交は、福岡を窓口にした玄海灘のルートでした。福岡市中央区の元平和台球場敷地内で発見された鴻臚館(こうろかん)は時代は少し異なりますが、それを示すものです。
ところで、表があれば裏があるように、外交にも公が認めない裏取引があります。警戒の厳しい玄界灘を避け、有明海のルートで民間レベルの交渉は絶えず行われていました。
中国より不老長寿の薬を求めて日本に来た徐福も有明海のルートを通っています。このように最近、考古学の調査が飛躍的に進められ、有明海を通じた海外との交易の実態が徐々にわかってきました。
小郡遺跡や基肄城(きいじょう)も有明海より進入する敵に備えた軍事的拠点だったと云われているし、武雄市の近郊にある八幡岳の頂上には、大陸から来る船が玄界灘へのコースをとるか有明海のコースをとるか見張る場所がありました。
以上のような歴史的背景から七夕の信仰が日本でもっとも早い時期に有明海コースで筑後地方に伝わり、大崎の七夕神社を中心に根づいていったことが想像されます。